ブログを書き始めて、今年もちょうど一年の節目に差し掛かっているが、
私はこの半年間「カネ」についての持論をつぶさに述べてきた。
そしてそれも今回が最後になりそうだ。
経済学や社会学、人間学について顕学でないごく一般人の私の観点から見れば
結局のところ「カネ」というのは「共同幻想」であると結論をここに示すとする。
(「共同幻想」については過去ブログ参照)
しかしだ、「カネ」の帰着点を呈したのはいいが、本当に「カネ」というものは面白い。
意思も感情もない、只の無機質な紙キレが人々の思い込みによって、
まるで自我を持ったように人間の脳につけ入り誰もが「カネ」の奴隷となる。
自らが手を下さなくても、人は勝手に「カネ」のためにその人生の殆どを主人に捧げるのだ。
「カネ」といのは有るようで無いもの。
つまりは、畳の上の水練だ。
実に私は「カネ」に対するペシミスティックな考え方を念頭において述べていると思う。
メランコリーか(笑)なにせ自身が「カネ」の奴隷なのだ。
しかし!
同時に「カネ」との上手な付き合い方も思索してきた。
それは「カネ」の「価値」を大切にする事だと思う。
あるテレビ番組で「カネ」に対する価値観を測るテストが紹介されていた。
簡単な方法で、紙に自分が思う「一円玉」を書く。
重要なのはその大きさで、結果を統計的に見ると、若ければ若いほど大きくなり、
年寄りになるにつれて逆に小さくなっていくそうだ。
年齢と経済力が比例していることが良く分かる現象で、学生にとって一円玉は貴重であって、
経済力がついてくると、その「価値」は低くなっていく。
しかし、一円が足りないだけで電車に乗れない。
大好きなアップルパイも買えない。
読みたい本も買えない。
「カネ」の怖いところは、一種の中毒性を持つことにある。麻薬と同じだ。
一旦「カネ」の魅力にとり憑かれると「カネ」が人生の目的そのものになる可能性だってある。
手元に「カネ」があるうちはいいが少しでも減るのを見てしまうと非常に恐れるようになるだろう。
ここで肝要なのは、「カネ」に対する「共同幻想」を客観視することだ。
我々は、「カネ」に使われるのではなく、「カネ」を使う立場へと大逆転を目指すことが必要である。
そしてそれには「カネ」に対する知識と価値感は容儀であることを否定できない。
渋沢栄一は言った。
「正しい道理で得た富でなければ、その富を完全に永続することはできぬ」
お金に対し、人間は必要以上に感情移入しがちである。
「お金があっても無くてもいいが、無いと不便だ・・・」と考えるくらいの怠慢な日々を過ごすのが勝ちだ。
”お金では買えない幸せ”という慰めの言葉をはなむけに、
そろそろ終幕としよう。
草津本店:伊東