私は、そう、例えば、こういった考えを持っている。
―人生において「幸福」を手に入れるのにカネは有益であるが、
その代償に、我々はカネの「隷属」へとなる対価を差し出さなければならない―
自己啓発本を好んで読むのだが、
その殆どが「成功哲学」に基づき記されているものが多い。
(勘違いしないで欲しい。完全に自己満足の為に通読しているだけであって、
著書に対して批判をしたり深く追求する能力は元より無い)
一概に「成功哲学」と言っても、そのフィールド・スタイルは多種多様。
しかしながら「成功」というと、顕著として取り上げられるものは「巨富」であると私は思う。
有名どころで誰もが一度は目にしたことがあるだろうタイトルを挙げてみた。
本が積み上げられるたびに、彼らの研究書によって、私の頭の中で構築されていく、人生の成功への渡り橋。
通るためにはやはりカネが必要という結論に至ったわけだ。
「カネによって政治が動かされる」
「カネによってその罪が許される」
「カネによって自分の価値が決まる」
生きていくうえで、幸福だとか成功を手に入れようと思うと、
その大小に関わらず、必ずカネを求めてしまう。
「地獄の沙汰も金次第」と言われるが、ヒトの人生論において、
その生を終えるときでさえも「カネ」ということに落胆せざるをえないではないか。
全ての頂点に立ち、他を支配する能力を与えられた人間を、唯一従えることが出来るのは「カネ」である。
と言っても過言ではないと私は思う。
いつか自分は、具体的に幸福を享楽する努力をどこかに放り投げてしまった時、
人生をカネに賭ける日がやってくるのではないかとぼんやり思ってみたり(笑)
いやいや、それはない。たぶんネ・・・(確信はない)
前回のブログに続き、私は「カネ」について述べている訳だが、
そのおかげで日常、金銭について思索する事が増えたような気がする。
まんまと私もうまい具合にカネの召使いになっているということか・・・
と、いつもの様に「カネ」に対してペシミズムな考えを吐露しているわけで、しかし、
オプティシズムに考えれば「カネ」自体は「幸福」を与えてくれる最も身近な存在であることもまた然り。
だから声を大にして言いたい。
批難する対象ではなく、むしろ私はお金が大好きだ!
(みんな金銭が好きだよ当たり前じゃないか)
ここで1つのエピソードを取り上げよう。
カネから与えられる幸福の支配を上手に抜け出しているある人物のお話。
その昔、1人の金持ちが港へ到着した。
船から荷物を運んで貰おうと思い、桟橋に足を投げ出して日光浴をしていた浮浪少年に向かって、
「チップをたっぷりはずむから」
と荷物運びを頼んだ。すると、
「ご遠慮しますよ、Sir」
とすかさず断るではないか。そしてこう言った。
「今日はもう食べることが出来たんでね」
この浮浪少年の「幸福」はとても小さい。
だがその大きさを測る前に、日常生活の些細なことに幸せを感じている。
チップを貰えばもっと多くの幸せが手に入るかもしれないのに、機会を目の前に放棄してしまったのだ・・・!
モラトリス文学者は語る。
「我々は幸福になるよりも、幸福だと思わせる為に四苦八苦している」
時に、カネが自分の価値を決める道具になってしまう現代では、
身なりだけを気にし過ぎて自分自身で幸福を感じることは難しいだろう。
当たり前のことを幸福とさえ思えない私には、この話は良い刺激を与えてくれた。
しかし、あくまでも私はその少年に感心しただけで、
それじゃあ今日からメシだけ食えれば人生は幸福に満ちている!とは思想転換できない。
目の前に10万円を無償でくれる者がいるならばそれを遠慮なく貰うし、
給料が上がるのならばそれを喜んで受け入れる。
なんとも、欲の大きさに比例して奴隷の足枷の重量を、自ら増やしていくとは嘆かわしい・・・
どうやら私の解放へのファンファーレは未だ鳴らないようだ。
ユダヤの民は言う。
「金銭は無慈悲な主人だが、有益な召使いにもなる」
主人に反旗を翻し、下克上を夢に見ながら、
今日も今日とて、私は金券を買い、節約に勤しむ。
草津本店:伊東
―参考文献-
イタリア人の働き方:シルヴィオ・ピエールサンティ
ユダヤ人の諺