ついに終わってしまった『真田丸』
楽しみにしていたのと同時に、これでもう終わってしまうんだな、何かの間違いでドラマの中だけでも幸村(信繁)が勝つ、なんてことがあっても良いのではないか。と思いながら、静かにそして涙も少し…
2016年はまさにこの大河ドラマと共に過ごした日々でした。
そして遂にこのブログでのテーマもこれで最後。
世間では真田丸ロスなんて言葉も流行ってますけどまさにその通り。
(真田丸の放送がないことを受け入れられず、改めてショックを受ける真田丸クラスタの人たちの様子)
皆さんも知ってる通り大の歴史好きで、このドラマがはじまって以来、真田家ゆかりの地巡り、大阪の陣などについてもけっこう本を読んだり、検索したりしたのですが、この『真田丸』は三谷幸喜さんの「省略の美学」みたいなものが、とても上手に機能していたと特に思います。
歴史ドラマとしては、あまりにも史実と違うというか、時代劇だったらもっと重厚につくる、あるいは泣かせにかかるような場面が、ことごとく『真田丸』ではスルーされるか、描かれることすらありませんでした。
幸村の切腹も見せない。大介の最期も見せない。盛親、明石さん、勝永様の未来も見せない。秀頼と茶々の最期も見せない。信之が大名としてやっていく様子も見せない。佐助のその後も、きりがどうなったかも、何もわからない。理由は全部「幸村が見ていないから」。なんてずるい、ずるい脚本なんでしょうね。
いや本当は、正直なところ、自分があまりにも「これまでの時代劇のクライマックス的なスペクタクル」を求め過ぎていた、というのは事実。
しかし、あらためて考えてみると、ずっと「他人がつくった流れのなかで、全力を尽くして生きてきた男」に、最期くらいは「自分の意思で幕を引かせてあげよう」と三谷さんは思っていたのかもしれません。
だから、幸村視点の脚本を徹底していたんでしょうね。
私は、この記事の三谷さんの言葉が、「腑に落ちた」のです。
“信繁がただのヒーローではなく、勝てなかった人たちの“守り神”になれるといいなと思いながら描きました。”
三谷さんは、真田幸村を「正義を声高に主張する忠臣」や「鬼神のような猛将」「隙のない名将」として登場させなかった。
幸村に対してこんな記述があります。
“信繁の人柄は、兄・信之の言葉によると柔和で辛抱強く、物静かで怒る様なことは無いという、およそ勇猛な武将のイメージとはかけ離れたものであったようである。また、信之は『幸村君伝記』において「幸村は国郡を支配する本当の侍であり、それに対して我らは見かけを必死に繕い、肩をいからしている道具持ちという程の差がある」とも語っている。”
堺雅人さんの「真田幸村」は、まさにこういう人物で、史実に忠実だった、とも言えるかもしれません。
私は、堺雅人さんが、いつ泣いたり嘆いたり、諦めたりする表情を見せるんだろう、と思いながら観ていたんですよ(笑)
ところが、最後の最後まで、あの微笑を崩さなかった。
「真田丸」の幸村は、堺雅人さんは、「華々しく死ぬ」ことを望んだ人ではなく、最後の最後まで足掻いて、「少しでも状況を改善する、より良く生きる」ことを貫いた人でした。
結局私はやはり、「滅びの美学」みたいなものを期待していたんだな、と自分を省みてます…
世界観を最後まで崩さずに終わったのは、作品全体としてみると、三谷さんもまた「最後だけに重きを置くのではなく、最初から最後まで、自分のペースを乱すことなく、やるべきことをやった」とも言えるでしょう。
完走おめでとございます。
毎週楽しい思いをさせて頂きまして…
さて!
来年2017年大河ドラマは「女城主 直虎」
戦国時代の力強い女性が描かれるでしょう!
一年間ありがとうございました。
草津本店:伊東